沖縄「復帰記念メダル」

沖縄県教職員組合と沖縄返還「復帰記念メダル」

復帰記念メダルが約20万枚発行ということは国としてもかなり製造費用がかかっているのではないでしょうか。
今の政府ならメダルではなくて記念硬貨として発売することでしょう。
本当に粋なことですねー。

以下に紹介する記事のサイトにある写真は目の保養になりました。ありがとうございます。

日本政府はイキなこともやってくれた。1981年5月15日付の琉球新報の記事に曰く。

「総理府は、昭和47年3月22日付で、屋良朝苗主席あてに5月15日の復帰の日に、市町村教育委員会を通して、沖縄の小、中学校児童約20万人に復帰記念メダルを配布するよう正式に通知した。
このメダルは銅製で直径2.2センチ。
裏側中央には国旗を描き、上辺に<復帰おめでとう>、下の方には<内閣>の文字。表は<守礼門>を中心にして、周囲に海をあしらった波形がデザインされている。
ところが<核付き返還・屈辱の日>として、沖縄教職員組合は配布に反対。
各分会に対しても、配布に非協力体制をとるよう指示。
当時の児童生徒は、小学校が233校で12万9449人。中学校が149校で7万1144人。計20万593人。
宮古、八重山、北部で校長を通して配られたものの、那覇や中部では、現場の反対にあい、約10万個が宙に浮いたまま回収された。
那覇の場合は、教育委員会が受け取りを拒否したといわれる
この10万個のメダルは、県教育委員会の倉庫に今なお眠ったままで、取り扱いに苦慮している」

母は、泣く子に甘いアメをあたえて、基地付き復帰を納得させようとしたが、子は、アメを受け取らなかった。なめなかった。

引用元:http://sun.ap.teacup.com/ueharanaohiko/261.html

上記引用元のページには「記念メダル」の写真が載っています。

ところで気になったこと。

沖縄教職員会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)

沖縄教職員会(おきなわきょうしょくいんかい)とは、復帰前の沖縄において、教職員の経済的・社会的地位の向上を図るために組織された団体である。現在の沖縄県教職員組合の前身であるが、校長などの管理職も包含しており、いわゆる労働組合(職員団体)ではない

以下は沖縄県教職員組合のホームページから

「沖教組(OTU)」ってどんな組織ですか。
ようこそ、OTU(沖縄県教職員組合=沖教組)のホームページへ。
このページを通して、沖教組とはどんな組織なのかをみなさん紹介したいと思います。

沖教組は敗戦後の混乱の時代に、子どもたちの将来のために立ち上がった教師たちによって、結成された「沖縄教職員連合会」に始まります。その後、「沖縄教職員会」として焼け野原だった学校に「戦災校舎復興運動」をとおして教科書や教育備品の受け入れをしたり、戦後の教育に力を注いできました。また、アメリカ占領下で植民地教育を許さないために「教育基本法」をはじめとする「教育四法」を立法化させ、復帰のめどが立たない時代に「日本国民」としての教育の指針を確立しました。さらに、祖国復帰運動の中心的な役割を果たし、戦後初の主席公選では、当時の教職員会会長の屋良朝苗先生を当選させました。その後1971年に「沖縄県教職員組合」として労働組合に発展移行し、現在に至っています。

その間も、私たちは、子どもたちの健やかな成長を願い、「学習権の保障」「わかる授業」「楽しい学校づくり」をめざして、平和と民主教育の確立のため、努力してきました。さらに日教組に加盟し、「教え子再び戦場へ送らない」を基本理念とし沖縄県の子どもたちの未来を創造するため活動をしています。

http://www.oki-tu.org/page/category/about-us/

Wikipedia の記述では「労働組合(職員団体)ではない」となっているのに沖教祖では「労働組合に発展移行」と。うーん。

「復帰のめどが立たない時代に「日本国民」としての教育の指針を確立しました」としてるのに何故配布された記念メダルを拒否したのでしょうか。

沖縄返還当時「中華人民共和国琉球自治區」を目指していたという噂は本当だった。なんてことありませんよね?

よくわからない団体です。